ルマンの青い思い出

1977年のお話をします。 古い話ばかりで恐縮ですが古い奴は古い話しかありませんので、少しばかりお付き合いください。
1973年のシグマMC73の製作少しばかり手伝ったことは前回はなしましたが学生を何とか卒業出来、晴れてシグマに入社、2年の研修期間(別部門のシグマ商事グループに派遣され2年間ガソリンスタンドで、それはそれは楽しい、苦しい接客業と一般自動車の仕組みを勉強しました)が経過してシグマ本社に転勤になりました。


『ポルシェ936この車両が自分のターボと長い付き合いが始まるきっかけとなる運命的出会いでした。 また、ライバルであったルノーアルピーヌA442もこのあと関係をもつのですが、、、。』
そこではもうシグマのレース活動は縮小されましたが、ルマンに行く計画はすこしづつですが進行してました。 が、その当時MC77となるであろう車両はありましたが計画はルマン輸送まえのフジでのテスト中に炎上、急遽中止となったのです。
その時のドライバーは、黒澤元治、鈴木恵一、そして岡本安弘の3名でした、、、。

ということでレース参加は中止となりましたが社長の加藤氏と自分が欧州視察ということで自分としては始めての渡航となりました。 飛行機に乗るのも初めて、ましてやフランスなど、、、。 兎に角その当時欧州には南周りかロシア経由の北周りでした。
その時は、旧ロシアのエアロフロート、途中ロシアでトランジェット、空港で待つ間、初めてのロシアンコーヒーで一服(御存知ない方にちょっと説明しますが、現在自分はコーヒーがダメなのです。 実はこの旅行の後までは大好きでしたが、ある暑い夏の午後、仕事の休憩中に余りの暑さに喉が乾いたものですから、お中元でもらったポッカのアイスコーヒー用2L缶を冷蔵庫で冷やしてありましたが、仲間といっきに飲んでしまいました。 その後4日間くらいピーピードンドン、これは広島の表現ですが、
おなかを下してもうたいへんでした。それからとういものトラウマというかコーヒーは、ダメなのです。)。 余裕の鶴田でしたが、フランスのパリに着いてからからは地獄の始まりでした。 でも加藤氏にしてみれば可愛い子分に旅をさせるのように親心だったのだと思い出したのは、自分も子供を持ってからですが、、、。

パリに着くと最初の1日目は夢のようでしたが、翌日いきなり始まりました。
加藤氏からメモが渡されました。 それにはこれから行くルマンのお世話になる友人の住所とルマンが終わって次に予定されてるルノースポールによる1週間のエンジン研修のための住所でした。
パリ、モンパルナス駅からの珍道中は又次回くわしくご報告しますが、今回はルマンです。 何とかルマン駅に約4時間かけて到着、電車から降りたのです。
当時の駅はプラットホームなんていうものは無く、電車から降りるとそこは砂利の地面で、よくヨーロッパの古い映画に出てくるシーンそのままでした。
何とか現地のフランス人と落ち合い、もちろん相手はオールフレンチ語、こちらはオール日本語プラス英語のような英日本語(当時の自分はまだ、英語がまだ完全ではありませんでした。 今もそうですが、、、)で、応対です。
旧市街地にあるオテル、リスカル(今では有るのか無いのか、、)につれていってもらいました。 そこからサルテサーキットは、5Kmくらい離れた町外れにありました。
今ではサルテサーキット付近は、新しい町並みとなりましたが当時はサーキット付近は畑と野原ばかりでした。 郊外てかんじ、、、。 田舎もちろんルマン市も田舎でしたが、、。

その当時の自分は今とは想像がつかないくらい話しべた、内気、ねくら、そして行動力が無いというか、もちろんフランスの片田舎(ルマン市に失礼)にきたのですからそれなりに行動してましたが、本当にうぶでした。
そうこうしてるうちに、木曜、金曜日と次第に盛り上がり土曜日のスタート時には、第一コーナー内側で今か今かとばかりに待ち構えてました。 後で分ったことなのですがそのフランス人は、かなりレースに精通してた方で、友人のティームがレースに参加してたのです、ロンドーというティームで、、、。 ルマン通の方は御存知と思いますが
このティームは地元の方々で車両はたしかターボ付きでその当時最高速は400Km近く出でました(当時の最速だったと思いますが)。 そのティームの招待をわちきは英語能力ない為、ぶっちぎっていたのでした。 この件思い出してもがっかりです、、。

話は前後しますが、水曜、木曜の予選日にはピットの中まで入り観察しました。
今のピットとは違いあの当時はまだ栄光のルマンで登場したスティーブ、マックイーン達のピットと同じでピットレーンと本コースはピットウォールは無く、ピットからそのままコースを横切って向かい側のアルプススタンド前に行けるのです。 ピットも狭く、ピット裏の通りはジャリがひいてあるのです。
ピットでのタイム表示は無く、ミルサンヌコーナーを曲がってスピードが丁度落ちて加速する地点の内側にあったのです。 ここはかくティームが陣取ってサインを送っておりました。
レースが終わった後訪問することになってるルノースポール(アルピーヌやこの後F1に初参加することになるあのルノーです)から今回出場してポルシェ936と歴史に残るし烈な戦いをして総崩れとなるルノーアルピーヌA442をピット裏のルノーティームのテントに近寄り、つぶさに観察したものでした。
この時のルノーとポルシェの戦いはポルシェヒストリーとかネットで見ていただければ分るとおもいますが、その現場におられたことを懐かし思うのです。

一日中ルノースポールのティームのまわりで見ていた自分を、後で再開することになるその当時50歳くらいのおじさん(今のおいらくらいか、、、)がちらちらと自分を見ておりました。
技術屋の頑固親父らしく、殆どしゃべらなくて声もかけてくれませんでしたが、、。 後日訪問すると、再開にビックリしてましたが、そのおじさんには1週間のルノースポール研修中ずっと自分の世話を焼いてくれ、お世話になるのですが運命とはやはりあるのですかね、、、。

話は戻って今回の主役でもあるポルシェ936のことです。
この時のドライバーは自分の車両(936)が途中でくたばり、助っ人となるジャッキー、イクス、そしてユルゲン、バースという方ですが、初代BPR(現FIA、GT選手権と発展していったシリーズの)シリーズのB頭文字はバースからとって名ずけられたものでした。 このシリーズは、1990年代、鈴鹿の真夏の祭典(今年で無くなってしまい来年からGTシリーズになるそうですが)鈴鹿1000Kmレースにも何回かBPRシリーズとして開催されまして、我が混生ティームもマクラーレンF1GTR,F40.993GT2の車両で参加したものです。
又、話は戻って、このポルシェ936は、2.2Lシングルターボですがアルミスペースフレームで、この後956に発展するベースとなった車両です。
レースでは、アルピーヌA442軍団(これも2LV6シングルターボ)が大量リードするのですが夜明け前に全部潰れてしまいました。

そして、じりじりと追い上げていた936がとうとうトップに立たちました。
こちらも午前中に1気筒しんでしまったのですが、そのシリンダーのプラグを抜いて何とかゴールするというドラマでした。 そのウイニングラップをパレードするのですがコース上には観客がなだれ込んで、もう、お祭り騒ぎ、、、。
自分もいきおい自然にコース内に入り、各車の通り過ぎるのを目の前で見てたのですが、ここで一生忘れられない悲劇が起こったのです。
よくドラマが起こりますがこの時はもうショックで半泣き状態、レース後の余韻を楽しむ余裕も無くタクシーでオテルに帰ったのであります。
ジーンズ(昔はGパンといったが)の後ろポケットに入れていた縦長の、、。
その時は何にも思わずに持っていた札入れをすられたのであります、、、。

中には日本円ざっくりとフラン少しを一緒に入れておりました。おバカさんであります。
このすばらしい経験の後は、学習しましたのでサイフはポケットにスッポリ入る奴を使っております。 現在は、、、。
てな具合でA442も936も自分には忘れられない青い思い出なのであります。
このころからターボの魅力に惹かれていくのですが、、。
ついでですが翌年はA442が敵討ちとばかりに圧勝してスポーツカーから去り、F1に殴り込みを掛けて行き、あのF1初の1,5Lターボの初代チャンピョンになり各ティームがターボ時代に入るのです。
この時代から自分は知らず知らずにターボと縁が深くなっていったのです。


平成17年12月01日
鶴 田 昭 臣