ルマンの青い思い出 2



ルノーF1  型式 RS−1
ルノーゴルディーニエルフ タイプ  シングルターボ KKK製
V6 4バルブ 1,492cc
525PS  10,500rpm
車重 600Kg
1977年7月 シルバーストーン デビュー
Dr.ジャン P ジャブイーユ
ルノースポールでNAエンジン研修中、となりのガラスで仕切られた部屋でベンチ室から台車に乗って出てきました。
見るとエンジンブロックに大穴を空けてオイルまみれの姿でした。
その5日間に延べ10台以上は壊れた様子です。 ベンチ室から運び出されるかわいそうなエンジン君たちは痛々しそうでした。
今でこそF1チャンピオンになったルノーエンジンですが、このころ、1.5Lで500PS以上をひねり出すことは大変なことだったと想像できます。




ルノーアルピーヌ A442
ルノーゴルディーニエルフ タイプ
V6 4バルブ 1,997cc シングルターボ KKK製
500PS
車重 715Kg
1975年 デビュー
ポルシェ936と勝負してことごとくエンジンが壊れていった1977年のくやしさをバネに、翌年は総合優勝していまったということは、簡単そうにみえますがそうではありません。
ニッサンもそうでしたが、あのトヨタのTS010、TS020のように物量作戦で挑戦しても、どちらのメーカーも総合優勝してません。 こちらも相当プレッシャーがあったはずです、、、。
内気でノンビリ屋のフランス人は、やる時にはやるんですね。
ドイツ人もそうですが、忍耐力は、やはりあのヨーロッパ大陸で他国と戦いながら長い歴史のなかで育まれた伝統なんでしょうか、、、。

傷心のキズもいえないまま翌日は、再び電車に乗ってパリに向かいました。
パリからモンパルナス駅で切符を買い、ルマンに向かう時もドジをしました。 1等、2等と日本の電車みたいに客車クラスがあったので、行き先を切符売り場のおじさんに、思わず"ドゥチケット"とフランス語と英語のミックスで言ったのがいけなかったのです。
同じような切符をもらったのですが車中まで気づかず、車内に廻ってきた車掌のおじさんに2枚を見せたら何だかフランス語で喋ってくるではありませんか。
何のことかきょとんとしてると、たまたま通りかかったバックパック姿の若いきれいなお嬢さんに「どうしたんですか」と英語で話し掛けられました。
つたない英語で説明したところ、その若い女性はフランス語でなんかしゃべっていました。
その横顔が、当時のムービースターで有名だった”オリビアハッシー”に良く似てました。 金髪のそれはもう、、、、。
(”オリビアハッシー”・・・いまではおばさんですが、、、。 僕らのあこがれ、ロミオ&ジュリエットは高校生時代に何回か見にいって興奮したものでした。)
ということで、車掌は納得したようでした。

そして、1枚を返しもう1枚は取ろうとしたので、自分はあわてて取り返しました。
するとフランスのおじさんは何か喋ってきたので「オレのお金で買ったんだ。 返すならお金を返せ!」と又、オリビアハッシーのお嬢様に助け舟をお願いして言ってみると、フランスヤローは(だんだん表現がお品悪くなりますが、興奮してますのでお許しください)、「そんなことはノンだ」といった感じだったのでムカッとして、その場で1枚の切符を破り捨てたのでした・・・・。

帰りの電車の中は、あんまり思い出せません。 どうやってパリに着いたのか、、、。
兎に角パリに戻り加藤氏と落ち合い、その晩を一緒に食事しました。
今はもう無いと思いますが、ピガール広場に行って楽しい夜を過ごしました。 国際交流したりして、、、。
ところでパート1ではお話しませんでしたが、ルノースポールでの研習中の昼飯、夜メシですが、当時の自分はフランス料理などというものは見たことももちろん食べたことも無かったので、適当に頼み出された物を食べるしかありませんでした。
今ではフランス料理は大好きですが、その味の印象は、ただ酸っぱいだけでした。
なぜかお酢がふんだんに使われているのです。 若かった自分にはとてもおいしいとはいいがたかったのです。 その当時お酒を飲まなかったからそう感じたのか。
ワインと一緒に食事できたらもっと堪能できたのでしょうが、、、。
最近はお酒がないと手が震えますが、、、。
そんな感じだったので、食後にふんだんに出てくるチーズ類(ブルーチーズを含む)を楽しむなどという余裕はありませんでした。

翌朝、朝一番から次の目的地ルノースポールです。
朝、加藤氏と別れ、パリ市内と勘違いしてたので(近いと思っていたので)タクシーで行こうと思い、ホテルでタクシーを頼んで(この辺では度胸もだいぶついてきましたので)乗り込みました。
運ちゃん(俗語ですみません)に紙に書いた住所を見せると"ウイ"と言いながら、何か余り納得してない様子で走り出しました。
15分くらい走って閑静な住宅街の中で止まりました。 "ここだ! イシーパ"なんて言いましたが・・・。
とてもルノースポールという工場とか大きな会社があるとは思えません。
どうも住所が似たような名前ですが違っているようで、ルノースポールはここからまだ30Kmくらい南の方だなど言ってるのが何となく分りました。
これも試練か、、。 運ちゃんは近くの駅まで行ってくれました。 自分の悲壮な顔をみて気の毒に思ったのか、、、。 ここから電車で"シルヴィプレ!"なんて感じで分かれました。

その時は自分は大きなスーツケース。 今時のようなキャスターなど無しです。
片手には、アタッシュケース(今では死後らしい、、、、この当時は007ジェームスボンドで、これが流行ってた物ですから、、、サムソナイトの、、、)です。
もうおのぼりさん状態です。 朝の通勤ラッシュが少し終わりかけた9時ごろですが、それでも多い人ごみの中を電車に乗ったのです。
そしてここから少し明るい話になります。 切符を買う為に、今度は前もってその辺の通りかかる方に恥じも外聞もなく尋ねました。 もちろん若い女性の方に、、、。 前回学習しましたので、、、。
今度は、若いといっても25〜6歳の、今でいうキャリアウーマン風の女性でした。
全身黒っぽかった印象のタイトスカート、ペネロペクルス(クロス?)さんのような方の前に強引に前に立ちはだかり、"スピーク、イングリッシュ?"って、困ってしまった感じで話し掛けたところ、ドウシタノトと英語で答えてくれたのです。
そこで、住所と会社名を見せると"それは何々の駅よ!"て感じで教えてくれました。
嬉しかったですね! 嫌いだったフランスがいっぺんに好きになりました、、、。

切符を買って(そこで彼女とはお礼をいって別れました)電車に乗りその駅まで
約30分くらい乗り、その駅に着いたので降りたら、なな何と彼女が降りてこちらの方に歩いてくるではありませんか、、。 方向が出口だったこともありますが、その時は自分のために降りてくれたのかと思いました。 ほんと、、、。
それで彼女は自分に微笑みかけ、"こっちよ!"と、手招きしてくれます。
駅を出ると彼女は目の前に止まっているタクシーの1台の運転手に何か話してるようでした。
そして、これでそのルノーまで行けるわよ!と、、、。
もうまるで天使のように見えました。 又、どこかでお会いしたいですと、気のきいたセリフを言えたらと、今でも思ってます。
そのときは、体全体に賛辞を表す動作(といっても多分少し笑ってただけだと思うのですが)と"メルシーボクー"しか言えませんでした。 あの時は本当にありがとう。
てなわけでやっとAM10時ごろに目的地ルノースポールに到着したのです。
そして、受付で日本からやってきました。 担当者に紹介して欲しいと告げました。
受付の、これまたお嬢様は金髪の年のころ20前後の当時の自分より若い方でしたが、無表情に受け答えして電話で何処か内線につないで連絡してました。
先程のフランス女性の見方がここではもろく崩れ、又フランス人が嫌いになりました。

そうこうしてるとちょっと偉そうな男性がやって来て(ちょっと遅かったな)、「担当のエンジン技師を紹介するから、待っててください。」と言いました。
こちらの日本語英語にその男性(45歳くらいの若いときのウイリアムズ氏、いまのF1のウイリアムズティームの、、、)は、流暢な英語で色々質問されましたが、何と答えたか今となってはあまり覚えてません。
やはり男性とのやりとりは女性に比べ雲泥の差で記憶してないのです。
そして、工場内に連れて行かれそこで、27〜8才くらいの技師、190センチくらいの大男ですが技師らしく殆ど喋らないフランス人でした。 イメージでいくと若いころのロバートレッドフォードてな感じの金髪の、、、。

その日からいきなりそのロバートと2人でジェスチャー混じりのエンジン組み立て教室(マンツーマンの)が、始まったのです。 これから5日間も、、、。
エンジンは、当時F2とGR、6のA441(A442のNA版)に使用していたCH1という2L、V6NAです。 カムカバーは、アルピーヌチューンらしくブルーに
アルミ地肌の横に筋(幅5mm位)5本入ったその当時良く見る物でした。

建物はというと、土地が野球場くらいあり、その半分くらいの大きさでした。
その中に自分が講習を受けたエンジン組み立てラインとガラスで隔離されたベンチ室が3つあり、そして、同じところに、30坪くらいのカーテンと板壁で囲われたところがあります。 クリーニング室です。
そこではその翌年からスタートするF1のエンジンであろう物が、ベンチ室から代車に運ばれて出てくるのを見かける事ができました。
ブロックに穴が空いたりしてるテストで壊れたエンジンでしょう。 このクリーニング室でまとわりついたオイルを洗浄しています。
毎日何回か見ましたが、その度にロバートが自分と目を合わせ残念という感じで合図してきました。

他には、丁度先日のルマンから帰ったきたA442軍団が4台はいる整備室があります。 又、インテークやピストンの加工、溶接器等があるライン室。 どれも300坪くらいの広さです。
楽しくない食堂(あとで説明しますが)は、技術屋と技師及び工員用は分かれていて、自分は最初、その技師のロバートとは別れて技術屋、及び役員用の食堂で技術員(F1の設計屋とか、、、)と食べてたのですが(こちらは、禁煙です)、ロバートとの交流を思い、次の日から変えてもらいました。
自分はタバコは吸いませんが工員達の食堂はタバコの煙でもんもんでした。 彼らは、フランスのジタンとかその当時フィルターの付いてないヤツをくちもとぎりぎりまで吸います。
ロバート達技師の履いてる靴は、ポックリのようなスリッパ状のもので、ベースは木でした。
作業着はブルー色で、昔の日本のお医者さまが羽織ってるようなやつです。

当たり前ですが、一日中エンジンを組み付けしてるものですから、ガラス越しに向こうでF1エンジンをテストしてる様子がどうしても目に入ってくるのです。 ある一人のF1エンジン担当技師は、それが気に入らないらしく、自分がたまたま彼の方を見ると怒ったような態度で"見るな!"という感じで近づいてきたりしました。
このF1エンジンをやってるおじさんは(おつむに髪の毛がなく、サイドに申し訳ない程度髪の毛を生やしたシルバー髪、そして同じ色の口ひげを生やした背の高いバックツーザフューチャーの博士が40くらいの若いころのような・・・)、どうも自分が遠い日本からやって来た目的は、F1エンジンの何らかを盗みに着てると勘違いしてるようでした。
ものすごい敵意のある眼で見てまして、怒ってこちらに向かってきて何か言おうとしてるのが分かります。
それらを気遣ってなだめるのが、先日のルマンで会ったおじさんです。
イメージは、グレーの髪でクロブチめがね、背は丁度自分とおなじくらいの170くらい、体はごつくサンタクロースのおじさんというイメージです。
研習最後の日に自分がその辺の方たちと皆で記念写真をとる時も、自分はその口ひげおじさんにも一緒にとジェスチャーで誘いましたが、拒んでるのをうながしてガラスの向こう側から連れてきてくれたのもサンタおじさんでした。
最初自分がそのエンジン組み付けラインに入って周りの人を紹介されたりした中に彼がいました。
自分も驚きましたが、サンタおじさんも、ほー(いまはやりのフォーではありません、念のため)と少し驚いたようです。
彼の方から近づいてきてくれ、大きな手で握手してくれました。
そしたらそのサンタおじさんがロバートに何か話てまして、それから何だか打ち解けてきたようで、自分に対する態度もだんだん変わってきて、色々教えてくれるようになりました。 もちろんジェスチャーと紙に書いた絵で・・・。


自分は未だ小学生4年の時、郷里の広島でお袋が内職でやっていた茶店を、学校から帰ると兄貴と代わる代わる交代で店番してました。
場所は旧広島市内を一望できる比治山(ヒジヤマ)という標高60Mくらいの山で、西側の頂きに展望台があることや、原爆病院とかも近くにありましたので、観光バスが多くのお客さまを連れてきてました。
観光客は、そこでバスを降り、市内を展望したり、2店ある(私のお店と、もう一店は他の方の経営)茶店でおみやげや飲み物を買って行くのです。
北は東北の方、南は九州の方といろんな地方からお客が来るので、生で方言が聞けます。
そして、広島は原爆を受けたことが観光にも繋がってる為、海外の、特に欧米の方々がたくさん来られました。 その外人専用バスは、国内用のバスより遥かに高級そうな車両であることは小学生の自分でも良く分りました。
アメリカ人、イギリス人、ロシア人と子供ながらに言葉を自然に覚え、商品の名前や金額等のやり取りといった簡単な会話は出来てしまったのです。
もちろん英語が圧倒的におおく、フランス語はあまり記憶にありません。 アメリカ人の中でも英語の発音の違いを体験し、方言があるのを知りました。
また夜は、隣りの県の岩国アメリカ軍駐留基地より放送される英語放送を聞き流してものでした。
また、アメリカ人とイギリス人の話し方も違うのを知ったのもこのころでした。
しかし、中、高と英語のグラマーの成績は最低でした。 でも嫌いではありませんでした。
また、"This is a pen"とか"That is a dog"とかは全然使わないネイチャーイングリッシュを肌で知り、学校での勉学意欲をよけいに落としました(言い訳ですが)。


話は戻って、一日一日と経っていきまして、毎日泊まるホテルも近くに用意してくれました。
夕方講習が終わるとロバート兄貴が自分の車(何だったか覚えてないのです、、)で10分くらいかかって送り迎いしてくれました。
夕メシはホテルでなく200mくらい離れた小さなレストランがあり、そこでいつもも食べるのです。
レストランの50才くらいの、やはりあたまの髪がないけど口ひげのある、160cmくらいの小太り(映画ツインズのシュワルツネガーの相棒のような)おじさんが、いつもニコニコ出迎えてくれます。
ドアの右側がカウターバーになってるのですが、カウンターの中からガラスコップをタオルで磨きながら"サバー"ていうのが毎日の挨拶でした。
講習を終わるのが夕方5時ごろで、車で送ってもらってホテルに着き、ゆっくりと歩いてそのレストランに付くと6時ぐらいです。 でもフランスの6月の夕方6時ごろは真昼間のように明るく、ましてやヨーロッパの皆さんは夕食は9時や10時くらいから始めるので、お店はガラガラ。 カウンターで近くのおやじさんがチビチビやってる以外、誰一人としていません。
自分ひとりのさびしいお食事タイムなのです。
毎日、今日は何にするなどとツインズおじさんは聞いてくるのですが、分るわけも無く、"シルヴィプレ"でお任せでした、、、。
挨拶の"サバー"と言い返す時に、いつも塩さばを思い出し、むしょうに温かいご飯と一緒に食べたくなるのでした。
人間の順応てのは習うより慣れろがごとく、その環境にどっぷりつかっていれば赤ちゃんでもフランス語を話すんですからいわんや優秀な(自分ではそう思いたい)ツルタは、この5日間の後半は身振り手振りまじえて覚えた単語でしか話せませんが、相手の問いかけが大体何を言ってるか分ってくるから不思議です。
30万、50万円出して駅前留学とか言って英語教室に入るなら、その予算で現地に行った方がどれだけ効果があるか、、、。 現実にはなかなか難しいですが、、、。
1週間くらい滞在していてその気があればどんな人でも喋れはしないけど、相手の言ってることが分ってくるのを経験した人は多いはずです。

そうこうしてるうちにエンジン組み付けは、研習も終わり大体こんなもんだと理解しました。 やってることはそんなに日本とは変わらないのです。
ここでフランス人とアメリカ人の国民性の違いを垣間見ました。 大体フランス人の技師、工員は、おとなしくどちらかというと日本人に似てます。 ドイツ人もそうですが、、、。
こんな事がありました。 ルマンを終えたアメリカ人ティームのA442のメカニックが、次のレースの為に分解整備してたのですが、仕事をしながら身振り手振りでぺちゃくちゃ喋っていた所、作業台の片隅に置いてあったアセトン(アルコール系の脱脂に使う液体)の入っていたワインのビンを落としてしまったのです。
もちろん、ビンは割れてしまいましたが、アメリカ人は、それをみて笑いながら話を聞いていた隣りのフランス人に、"オマエがやった!"とばかりに指差しました。 差されたフランス人はオドオドしながら何か喋りましたが、アメリカ人はどこかに行ってしまい、結局そのフランス人が片付けをしたのです。
その人を見て全てを想像する事はできませんが、国民性かなと思える一幕でした。
こんな感じで過ぎてしまえばあっという間の5日間でした。 その当時のことをこうして書いてるとつい昨日のことのように思い出されますが、よく考えると30年近く前の体験です。
近頃、"例のあれ"とか、ムービースター等の名前がなかなか思い出されなかったり、部下に話そうと思ってたことが途中で電話が入ったりして、その後にそのことが思い出せないことが多くなってきました。
痴呆症の老人が昔のことをよくおぼえてるのと一緒でしょうか、、、
なにかさみしい今日この頃です。
まあ、こんな昔話をする事自体、、、、。


追伸: 訂正しておわびすることがあります。 昨日これを書いて本日、気になったのでルノーの歴史を再確認したところ、ルノーF1がデビューしたのは1977年7月のイギリス、シルバーストーンでした。
自分がルノースポールにお邪魔したのがルマンが終わった6月中旬ですから、F1エンジン担当のあのバックツーザフューチャーおじさんはデビューまえのそれはプレッシャーのかかったカリカリした時期だったのでしょう。
ですから、遠いアジアの端の日本からやって来た、どこの馬の骨ともわからない奴がチラチラみてるもんだから頭にくるのは当たり前だなと・・・、今ごろやっと納得したところです。

これにはもう1つオマケが付いていて、翌年の7月ごろそのルノースポールからシグマにテレックス(当時は、海外からはこれでした)が来ました
1978年の秋口(何時だったか忘れました)に開催されるフジスピードウェイF1グランプリ(当時の30度バンクを使わず)に参加するのですが、その際、鶴田をスタッフとして貸して欲しいとの申し入れがあったのです。
加藤氏も喜んでおられましたが、当の本人など、冷静を装っておりましたが、とても興奮したのを覚えてます。

サンタのおじさんや、あのバックおじさんがどんな顔して合えるのかな等と、、、。
しかし、1978年はルノースポールにとっては試練の年で、ありましてそんなに簡単に最初から上手くいくはずもなく、出るレースはエンジントラブルでリタイヤ続き、、、。
ということで、そんな状態でアジアのはずれ(今のルノーにとっては、、、ですが)の、それもあまりいい結果が期待できないレースにお金を捨てるようなことは出来ないと、参加を急遽取りやめたのです。 じゃんじゃん、、、。
てなわけで、鶴田初参加なるF1レースはマボロシとなったのであります、、、。
F1マニアに方、お疑いでしたら一度確かめて見てください。 エントリーリスト、及びリザルトに載ってないですから、、、。


平成17年12月05日
鶴 田 昭 臣